自己紹介
私は、故人を偲ぶ気持ちがないわけではないのですが、こういった法要に頓着しなくてダメなんですけどね。喪主なのに。
義理実家から来週が『百箇日』になるから義理実家に来るようにと連絡がありました。
最初は『へぇ、そんな日があるのか。生まれて100日はお食い初めで子どもたちに鯛やらお吸い物を作ったりしたのになぁ。死んで100日もあるんだなぁ』そう感じました。
1〜2ヶ月に1度くらいは義理実家に遊びに行っていたのでそろそろ行かないといけないのかなぁとは思っていたのです。
これ、結構難しいですね。夫が死んでからの義理実家の訪問。
まだ、子どもたちが小学生とか幼稚園だからなんとかついてくるけれど。この先どうなることやら。
そして、子どもたちにも「おじいちゃんとおばあちゃんがお父さん死んで100日だからおいでって言っているよ。法要っていって、多分、念仏を唱えたりするんだよ」と伝えると
長男は「もうお父さんが死んで100日も経ったのか…」と。
次男は「そんなお祝いなんかしにいかん!おれはいかん!」と。
三男は分かっているようなわかっていないような。
三者三様でした。
遺族が悲しみに区切りをつける法要
百箇日とは故人が逝去してから100日目を指します。四十九日の忌明け後初めて執りおこなう法要のことを百箇日法要と言います。出苦忌(しゅっくき)や卒哭忌(そっこくき)と呼ばれることもあります。「卒」は「卒業」、「哭」は「声を出しながら涙を流す」状態を指します。
つまり、百箇日法要は大切な人を失った悲しみや苦しみに別れを告げ、前に進むための大切な儀式と捉えられます。しかし、四十九日の法要と異なり、近年は百箇日法要が省略されることは珍しくありません。
自分で調べてみて理解はしたものの、悲しみや苦しみと別れを告げるのはまだまだ無理だなと。
子どもたちも私もまだまだ悲しくて苦しい真っ只中にいますから。
それでも、1日1日は過ぎていくし、働かないと食べれないし、片付けないと汚くなるし、ただ生活をしているだけで本当に進んでいるのか留まっているのか分からなくなります。
長男には「本当に100日も経つなんてびっくりだよね。お母さんも実感ないわ」と共感し、
次男には「お母さんもなんだかお祝いみたいで変なのって思ったけどそういう法要なんだって。あなたたちも生まれて100日でお食い初めっていう食べることに将来困りませんようにっていう行事もしたんだよ。それはお祝いなんだけどね。死んでから100日もするんだねぇ。知らなかったよ。」と愛されていたことと今回は法要であることを伝えた。
次男はその日は納得しなかったが翌日、1対1で話した時には「どうせ行くならついていくわ」としぶしぶ了承してくれた。
この先、まだ法要はつづく。三男なんて父親と5年11ヶ月しか過ごせなかった。たったこれだけの思い出しかない。
本当に悔しくて。
父親と過ごせなかった以上に私達と過ごせるように楽しい思い出であふれるように。「ぱぱが居たらもっと良かったのにね」と言いながら楽しいこといっぱいしたい。
いっぱい計画してやるわ。できる範囲で。
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